湯布院(由布院)は暗かった

私は亀の井別荘の天井桟敷、鍵屋に友人を介して小さい民芸品を置かせてもらっていましたから、時折大分から車で湯布院に行くと通りはとにかく真っ暗で、沿道の民家から漏れ出る明かりで道路がわかるほど暗い道をゆっくり行くと、そこに大きな「亀の井別荘」があり、中に入ると九州各地から集めた工芸品や民芸品が置かれていて、2階の喫茶店からはクラシック音楽が天から降るように聞こえてきました。
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旅館「玉の湯」は亀の井別荘から駅の方に300mほどもどり、酒屋の角を左に折れると、橋の向の木立の中に建物がひっそりとありました。大きい看板らしき物もない民家風の建物の横の重い引き戸を開けると、30畳ほどの間仕切りのない部屋の真ん中に囲炉裏があり、それを囲むようにしてみんながガヤガヤと大声でしゃべりながら食事をしていました。喫茶室は母屋のフロント前に小さなコーナーがあり、珍しい本や写真集をみながら周りの木立を見ることが出来ました。
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当時の玉の湯「葡萄屋」のお雛様
私は最初玉の湯にいって食べたものよりも、中から窓を通して見える庭の景色や、内部の暗い空間に効果的に配された照明などに魅了されてしまいました。当時は社長の薫平さんが庭師と一緒にこけを張ったり、木を植え替えたりする姿をいつ行っても見かけるほど熱心でしたから、多くの人心惹かれたのは無理からぬ事かもしれません。それからは、「玉の湯」のことが頭から離れなくなって「あの空間に何か置いてみたい」という気持ちが出てきました。
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雛人形、「野路」のオリジナル
そして、ある日の午後、「玉の湯」の女将さんに自分で作ったオリジナルの雛人形を持って「玉の湯の為に作りました」といってみせたのが「野路」「若菜」です

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雛人形「若菜」オリジナル
女将さんは笑って「いいから少し置いらいいわ」と言ってくれ、狭い売り場の棚に私の雛人形を置いてくれました。先にも述べましたように湯布院は全国から観光客が来始めていたころで、着くと駅から真っ先に「玉の湯」に来る人が多く、食事時は葡萄屋(食事する建物の名前)の中は時間待ちする人で一杯でした。
それから1ヶ月もしたでしょうか。再び「玉の湯」に電話して様子を聞くと、「まだ、売れていません」とのこと。おかしい、どうしてあんなに良い物が売れないなんて、などと悩み再び新しいデザインにしては「玉の湯」に持って行き、置くこと3ヶ月ほどして「2つ売れましたよ」と売店の方から電話がありました。
今にして思えば、当時は私が民芸にあこがれがあって、その影響の為か色が鮮やか過ぎたようで、少しずつ落ち着いた色彩にして行くことで、販売が好調になってきました。
玉の湯は、その後も進化を続け県内よりむしろ日本中からのお客様が訪れているようです。
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2代目の若菜
「若菜」は最初は民芸風から始まってそれが時と共に派手になったり、地味になったりして成長していったように思います。
現在は名前のように春の訪れを感じさせてくれるような「蕗のとう、紅梅、藤の花」などを時々にあしらって描いています。
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婦人画報で旅館「玉の湯」から紹介された「若菜」です。

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