「若菜」は由布院の旅館「玉の湯」で私が最初に出した雛人形です。
20代の後半、私は大学を出てまだこれからの方向性が分からなくて、大学時代の先生の家に入りびたっていた頃、先生の奥様が「同窓会を湯布院でするから見に行こう」と誘われて、先生夫婦と湯布院に行きました。
当時、湯布院は金鱗湖のそばに亀の井別荘があり、その川沿いの下流に「玉の湯」があるだけで、民芸村が出来たばっかりでした。その中で奥様は「玉の湯」食事会をするようにしたらしく、橋を渡って「玉の湯」に入っていきました。
当時は、大きい看板らしき物もない民家風の建物の横の重い引き戸を開けると、30畳ほどの間仕切りのない部屋の真ん中に囲炉裏があり、それを囲むようにしてみんながガヤガヤと食べています。いろりに火をくべているためか「パチパチ」と音がして懐かしい空気が漂っていました。
私はその時に食べたものよりも、中から窓を通して見える庭の景色や、内部の暗い空間に効果的に配された照明などに魅了されてしまいました。それからは、「玉の湯」のことが頭から離れなくなって「あの空間に何か置いてみたい」という気持ちが出てきました。
当時の玉の湯「葡萄屋」のお雛様
そして、とうとうある日の午後、「玉の湯」の女将さんに自分で作ったオリジナルの雛人形を持って「玉の湯の為に作りました」といってみせたのが「若菜」です
雛人形「若菜」オリジナル
女将さんは笑って「いいから少し置いらいいわ」と言ってくれ、狭い売り場の棚に私の雛人形を置いてくれました。先にも述べましたように湯布院は全国から観光客が来始めていたころで、着くと駅から真っ先に「玉の湯」に来る人が多く、食事時は葡萄屋(食事する建物の名前)の中は時間待ちする人で一杯でした。
それから1ヶ月もしたでしょうか。再び「玉の湯」に電話して様子を聞くと、「まだ、売れていません」とのこと。おかしい、どうしてあんなに良い物が売れないなんて、などと悩み再び新しいデザインにしては「玉の湯」に持って行き、置くこと3ヶ月ほどして「2つ売れましたよ」と売店の方から電話がありました。
今にして思えば、当時は私が民芸にあこがれがあって、その影響の為か色が鮮やか過ぎたようで、少しずつ落ち着いた色彩にして行くことで、販売が好調になってきました。
2代目の若菜
「若菜」は最初は民芸風から始まってそれが時と共に派手になったり、地味になったりして成長していったように思います。
現在は名前のように春の訪れを感じさせてくれるような「蕗のとう、紅梅、藤の花」などを時々にあしらって描いています。
婦人画報で旅館「玉の湯」から紹介された「若菜」です。